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つながろうねっト

つながろう!世界の日本語教師

第9回日本語教育勉強会 事前資料

1.事前資料(メンバー間のやりとり)
週刊「日本語教育」批評 創刊号(2012812日付)より

http://archive.mag2.com/0001573661/20120815203626000.html

 

古屋憲章 「あの子」問題

学習者のことを「あの子」と呼ぶ日本語教師によく出会います。私は、昔から「あの子」という呼び方がすごく気になっています。聞くたびに「子どもちゃうやん」と心の中でツッコミを入れています。「あの子」という呼び方は、パターナリズム(家父長的温情主義)が日本語教育の風土として定着していることを象徴しているように思います。

 

 

この記事読んだつながろうねっトのメンバーがメーリングリストに以下のコメントを送り、以下のような意見交換(抜粋)が行われました。

 #001 メンバーA

「あの子」問題を読みました。私の周りで「あの子」は聞きませんが、ときどき「うちの子」という人がいます。「お宅のお子さん」と答えたりしますが、気づかない人もいます。ちょっと年配の女性に多いような雰囲気です。そして「うちの子」という人は、いい意味でも悪い意味でも、お母さんのような態度で学生と接しているような気がします。

もともと住んでいた人が日本人だからということで教え始めた…そんな日本語教育の歴史を持つ海外の地域が多いように思います。各地にそうやって日本語教育を立ち上げてきた母のような人がいます。やっぱり女性です。だから、この記事を読んで、日本ではお父さんなんだーと不思議でした。

 #002 メンバーB

それ、すごくわかります。私は社会人学習者を教えていたので、周りの教師が学習者を指すときに「子」と使うのに違和感がありました。でも、それよりも違和感があったのは、自分と同い年くらいか、自分よりも明らかに若い学習者のことを「あのおじさん」「あのおばさん」という教師もたくさんいたのにはびっくりしました。

 #003 メンバーC

私の場合、「うちの子」っていうのには確かに違和感があります。子どもじゃないのに、っていうのもそうですが、「うち」って何?って思ったりします。同じく、自分のことを「先生は~」って言う先生も変な感じがします。

 #004 メンバーD

「あの子」問題は、意外に根の深い問題ではないかと思っています。すでにみなさんがおっしゃっているように、私が特に引っかかるのは、「あの子」の「子」の部分です。学習者を「子」と呼ぶ教師は、教師と学習者の関係を(おそらく無意識に)次のような関係として捉えているように思います。

教師=強者、庇護者

学習者=弱者、(かわいそうな)被庇護者

また、学習者を「子」と呼ぶという行為そのものが上記のような関係の固定化しているようにも思います。学習者を「あの子」と呼ぶというのは、ごくありふれた行為かもしれません。しかし、そのありふれた行為を手がかりに日本語の教室というシステムが宿命的に内包するある種の差別の構造を描き出せるのではないかと考えています。 

 #005 メンバーA

いつか学生と話したとき、ある学生が、言語の先生との関係は、専門の先生とのそれとは違うという話をしてました。ひょっとして学生の側にも「子」の感覚があるのかもしれません。

#006 メンバーG

この問題は、外国語教育と植民地主義とのつながりの可能性を示しているとも考えられます。植民者が非植民者を女子供として扱ったいうことは、エドワード・サイードなどによっても指摘されています。以前マッカーサーが日本人は精神年齢が12歳と発言した事もその反映でしょう。日本人も帝国主義下で被支配者をそのように見下していたでしょう。また母語話者の優位性も、植民地主義の中の植民者の優位性と重なるところがあると思います。自文化の押しつけも植民地主義的です。私見ですが。

 #007 メンバーE

「あの子」ですが、#011植民地主義とのつながりを指摘されて、いろいろ考えていました。アジアにおける日本語教育では、学習者に経済的・政治的強者(日本)への同化を促している面があるという意味で、そのように捉えることも可能かもしれません。

一方、#001の例にあったような、海外の日本語教育者が学習者を「あの子」「うちの子」と呼ぶことをどう理解したらいいでしょうか。こちらの方はさらに複雑なような気がします。#001のお話からは現地に長く滞在する女性教師がこういう言い方をよくするという印象を受けました。そういった方々は現地では人種差別で苦々しい思いをされてきた方も多いのではと思います。そういう方々にとって、つきやすい仕事といえば日本語教師の職でしょうし(特に女性は)、自分の日本人性が売れる場でもあるでしょう。そのような場で自分の優位性を確保するために、彼女たちは学習者の「母」になるんじゃ ないでしょうか?「母」が「子供」に負かされることはありません。ある意味、「母」になることで、リベンジしている??「うちの子」なんて、私にはまさに「母」のボキャブラリーに思えます。

ところで「あの子」問題について家族に意見を聞いてみると、こうです。夫(教育分野からはかけ離れた人です)は、それはアジア的な文化だというのです。彼によると中国語には「一日為師、終身為父」ということばがあり、「一日でも教師となって教えてくれた人は、生涯あなたの父である」という意味だそうです。昔は師弟関係を結ぶ場合、大事な知識や技術を授け、授かる者どうし、精神的に両者の間に親密な関係が生まれたとのこと。それを聞いた小6の娘がいうところによると、今彼女がハマっているPercy Jacksonの物語の中で、高校生の主人公に教えるTutorが主人公らを「My boy」とか「My child」と呼ぶのだそうです。作者はRick Riordanという白人男性です。

#008 メンバーB

自分の日本人性が売れる場でもあるでしょう。そのような場で自分の優位性を確保するために、彼女たちは学習者の「母」になるんじゃ ないでしょうか?(#007

なんかそれがちょっと問題なんだろうなとふと感じていました。「日本人性」のみに頼らないと、自分の存在価値を出せない教師、多い気もします。頭の中にイメージするそういう先生方(あくまで、私のイメージです)は、当時海外で日本語教師の人材不足から、日本人なら誰でもよかった時代になった日本語教師って、そういう感じがします。それで、そういう人達が重鎮になり、教師教育をしていたり…。あくまで私のイメージですけれども。

#006の「植民地主義的」考え方は強いのかなぁと思ったりします。それは旧植民地という事実的なものだけではなく、力あるものが力のないものに与えるという力関係そのものなのかなぁと思います。

#009 メンバーH

#007を読んで、日本語教師でなくても大学教員が「That kid」などと言っているのを聞いたことがあるなあ、と思って大学で教えているアメリカ人2人(いわゆる白人)に聞いてみました。言語以外のコースの教員でも「That kid」や「My kids」を使っている人はいるとのことで、大学教員が学生を「子ども扱い」するという行為は必ずしもアジア人や外国語教師に顕著なことではないかもしれません。ただ、言語教師は他の教科の教員と違って、全ての学生の名前と顔を覚えるのが基本でしょうし、授業の中で日々の生活や趣味など、個人的なことを話すことは多いので、そういった面では教師と学習者の距離が近くなりやすいでしょうね。それで学習者に対して子どもや弟、妹に接するのと似た気持ちが芽生えたり、学習者も同様の感情を抱くことで、その関係性における言語使用に他の教科の教師とは語用論的な違いが生まれることがあるのかもしれません。

#010 メンバーB

確かにそうですね。「教える-教わる」という構造そのものが、「子ども扱い」しやすくなることにつながっているのかもしれないですね。

日本語の場合だと、日本語力のみで「力関係」を得ようとしてしまっているところがないかと不安に思ってしまったりします。そして、基礎の段階では「教師→学生」という立場は仕方がないのかもしれないですね。

ただ、日本語力のみだけに頼って「力」を得ようとするのは問題かなと思っていしまいます。例えば、自分自身が今の職につけているのも、もしかすると自分が「日本語母語話者」だからだと感じるときは多々あります。でも、そこで、「じゃ、日本人だから」と考え、日本語母語話者性を売りにしていくのはよくないと思います。しかし、そんな先生って実は多いような気がするんです。

 #011 メンバーH

自分の中では「あの子」と呼ぶ行為と「子供扱い」とが必ずしも結びつかなくて、「教える―教わる」の関係が常に「強者―弱者」という権力関係に置き換えられるのか、例えば、地域日本語教育と、海外の、私が教えている文脈では教師と学習者の関係性も異なるのではないか、などとぐるぐる考えています。

 #012 メンバーB

#011の「海外の、私が教えている文脈では」というところに少しビビビっときました。自分のまわりでは、同じ海外でもどこか教師というだけで偉そうにふるまう人が多いような感じがしています。

以前のメールにも書きました、個人的には「教師も学生と一緒に物事を考えることが大切だ」と考えています。その中で「権力関係」がHさんが言うように常にあるかというとないと思います。Hさんはそれが実現しているのかもしれないですが、教師の中には踏ん反りがえって「知識を与えている」ようにふるまう教師を目の当たりにすることもあり、それで少しそれでええのかなぁと疑問に思ってしまうことがあります。

ただ、「子」というの、ちょっと最近悩んでいます。最近、テレビを見ていても敏感に「子」ということばに反応するようになってしまっていて…。

教師―学生だの間だけでもなく「子」と使うことはあるなと思います。事実、レストランへ行って、サービスの悪い店員に「あの子なんなん?」とキレる人も見たことあります…。

だから「子」ということば、教師以外の日常会話でも表れていると思います。ただ、その中でもやっぱり違和感があるのは、教師が「うちの子」って言うときです。別に学生、自分だけから日本語を習っているわけではないし(他の教師のクラスもあるし、もしかすると学校教育以外で、たとえばアニメなどを通して日本語を学習している可能性もあります)、なんか自分の持ち物のように言ってしまうのにすごく抵抗があります。

「うちの子」ということで、自分の思い通りに"育てたい”ということが表れているような気がします。今日たまたま自分が以前教えた学生の話を他の人に話している時に使ったのは、「前学期教えた学生」という言い方でした。自分自身の学生との接点はそれくらいですから、そんなに強く「うちの子」「うちの学生」と言えるほどではないなぁとその時も書きながら思っていました(なんか「うちの子」「うちの学生」と言ってしまうと、なんか手とり足とり教えてしまっているような気がして・・)。

 #013 メンバーH

「教える―教わる」の権力関係というのも、わからないではないんです。本来、学習者であることは弱者ではないと思うんですが、教師や母語話者であることが絶対的な力となって、教師が言うことが正しいという状況ができ、学習者はそれに従うしかないという状況ができてしまったり、日本語が覚束ないという理由で学習者を子ども扱いすることで、学習者を弱者にしてしまっているということはあると思います。論点がずれている、理解不足なのかもしれませんが、共生日本語についての論考などを読むと、「同化」という言葉が出てきます。同化というのはその人が本来持っていたものが別のもの(強者のもの)に置き換えられることで、それによってアイデンティティが失われるということかと思います。日本において日本語を学ぶことは自分と社会をつなぐ手段を持つということですし、言語が壁となって発揮できなかったその人本来の能力を発揮できるようにもなるわけですよね。なので、「教える―教わる」という関係は、弱者を強者にする過程とも言えるんじゃないかと思います。もやもや中で上手くまとまりませんが。

ところで、この前教えてもらったstory.jp に「伊達政宗をいたちせいしゅうと読み、定期テスト0点を取っていた美少女が、英語ペラペラになって上智大学 心理学科に合格した話」という記事があって、筆者である塾講師が次のように書いていました。

多分、私がやりたい教育というのは、「正しい答えや正しい知識」、あるいは、「(先生に)求められている答えを言うようにすること」や「ク ラスや学年で一番になること」でも、 なんでもなくて、その子が持っている「面白い角度」をもっともっと掘り下げて、その子にあったでかい夢を一緒に見 て、一緒に考えて行く中でたくさん一緒に失敗して、「共に育つ」教育ならぬ共育がいい訳です。(http://storys.jp/story/2979

この「共育」という言葉、いいなと思いました。教師と学習者では教室への関わり方が違うので、学ぶこと、育つ方向も違うかと思いますが、同じ教室に両者がいることでお互いが何かを学び、育んでいける関係が理想なのかもしれません。「あの子」に立ち返ると、この人も自分の生徒を「その子」と読んでいますが、この人が学習者を子ども扱いしているとは感じられないんですよね。自分は「あの子・その子」と呼ばないようにしてはいますが、意識してそうしないようにしているのであって、そう呼んでしまう気持ちはわかります。自分は「あの子」を親しい年下を指す時に使うことがあるんですが、週4回顔を合わせている学生たちを思わずそう呼びそうになる時があります。ただ自分はあくまで学生の成績を出す立場で、客観的に学生を見られるような線引きが必要だと思うので、あえて「あの子」を使わないことでその線引きを自分に再確認をしていて、それが習慣になっている感じです。

#014 メンバーB

そうなんですよ。実は私もそのあたりモヤモヤとしていて、教育という性質上ある程度の“洗脳”は仕方がないのかなぁと昨日もメールを書きながら思ってしまいました。

story.jp、共感できるところがあるのですが、やはり「子」ということばを使うことで、どこか中高生の学生という印象を受けてしまいます。同じことを社会人や大学生を相手にして自分が言えるかなぁと考えるとちょっと厳しいなあと思いました。

#015 メンバーH

そうですね。私もこれ、送ってから思ったのですが、「子ども扱いしていない」というわけではないですね。その子が持っている「面白い角度」をもっともっと掘り下げて、その子にあったでかい夢を一緒に見 て、一緒に考えて行くとうのは、むしろ親のような気持で見ているのかもしれませんね。前言撤回、「見下してはいない」感じがします。社会人や大学生を相手にして、というのは私も想像しにくいですが、相手との年齢差もあると思います。自分が50ぐらいのサラリーマンの管理職で、相手が部下の新入社員とかだったらあるのかも。

#016 メンバーA

「教える―教わる」という関係は、弱者を強者にする過程とも言えるんじゃないかと思います。(#013

ふむふむと思いましたが、学習者がどんなに頑張って強者になっても、(学校という制度の中では)教師を超えるほどにはなれないか、仮になれたとしても、すっごく難しいと思いませんか。

#017 メンバーI

「あの子」問題ですが皆さんの文章を読んで、学校教育自体の問題が気になっています。

歴史学Philippe Arièsは「子供」という概念が17世紀以後の「学校教育」によって社会的に構築されたと考えています。Humanistsが文化を生涯にわたって身につけることを目指した一方、Moralistsは純粋だが混沌とした子供を教育する事に専念したと言っています。

私も教育機関で学習者に接しているので、Moralistsの影響を受け学習者を純粋無垢な存在と捉えてきたかもしれません。特に教え始めた頃は現地の言葉が話せなかったので、学習者の世界が全く見えないという決定的な問題があり、そのことも学習者を「子供」として捉えることに繋がったかもしれません。

大学生になって「あの子」と呼ばれるのはやはり嫌かなと感じます。学習者がどう感じるかは年齢によって変化しそうなので高等教育初等教育で全く違うと思います。それに義務教育の学校機関と私営の日本語学校でも違うかなと思います。義務教育では学校に来なくてはいけなくて来ています。そこで「あの子」とよばれる事と、自分で日本語を勉強しようと思ってきた場所で「あの子」とよばれるのでは意味合いが違うかもしれません。

また私のような40近い男性に「あの子」と呼ばれるのと、年齢が近い女性の先生に「あの子」とよばれるのでも意味合いが違ってくると思います。発音では「あのこ」ですが「あの娘」という意味かもしれません。ジェンダー的な力関係も存在していると思います。もちろん年齢も重要そうです、教師が30歳で学習者が60歳の場合に教師が「あの子」と言うとは思えません。

#018 メンバーB

確かに年齢はありますね。でも、実際に、30歳ではないですけれども、40代、50代の先生が、50代、60代の学生に「あの子」と言っているのを聞いたことがあります。そして、さらにびっくりしたのは「あのおっさん、あのおばさん」というのも聞いたことがあります(私から見るとどっちもどっち~みたいな)。

でも、そこで嫌だったのは、そのあとに続くのが大体「あの子(あのおっさん)にいくら教えても頭の中に入らない」ということば…。

なんかここの関係性は明らかに自分より年上の人に、「知識を詰め込み」、自分に順応させようとしている姿があるように感じますし、実はそれがかなり嫌でした。

これは、Hさんがいう「あの子」とはかなりニュアンスが違うような気がします…。でも、「あの子」っていう言葉よりは、教師の態度に私は嫌な気持ちになっているのかもしれないです。